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「わきまえる」ヒーローの時代は終わった プリキュアと「鬼滅の刃」煉獄さんの共通点

「ヒーロー」といえば、どんな存在を思い浮かべるだろうか。平和のために、悪者をこらしめる人? 人助けのためなら、自分はどうなってもいいと思えるくらいの覚悟を持っている人? そのいずれにも収まりきらないような女の子の「ヒーロー」が、2021年の初めに話題を集めた。

※「ヒロイン」は文脈によって多様な意味を含んでしまうため、本稿では「ヒーロー」という呼称を採用しています

1月31日に放送された『ヒーリングっど・プリキュア』(ヒープリ、ABCテレビ・テレビ朝日系列、二重カッコ内の「・」はハートマーク)42話。主人公の戦士・キュアグレース(変身前は中学2年生の花寺のどか)は、こう叫んだ。

「私はやっぱり、あなたを助ける気にはなれない」

自分の王に逆らって居場所を失くし、かくまってほしいとすがってきた敵方の少年・ダルイゼンに向けられた言葉だ。ヒーローなのに、「助けて」と言っている相手を助けなかった。このシーンは毎週のように視聴しているファンの輪を超えて話題を呼んだ。「見捨てないでほしかった」という声もあったが、ポジティブな評価も多かった。今求められるヒーローの在り方を語る上で、象徴的な出来事だったと思う。

YouTubeより「ヒーリングっど・プリキュア」第42話予告

全く観たことがない人のために、少しだけ前提を説明しておこう。

プリキュアは、「女の子だって暴れたい」というコンセプトで、2004年に初代シリーズの放送が始まったアニメだ。女の子がプリキュアという戦士に変身して戦うという核の部分は維持しつつ、登場人物や敵の設定が代替わりするシステムを取って16年間続いてきた。

今季のヒープリの敵は、「病原体」から着想したと思われる「ビョーゲンズ」という一味。地球の自然や生き物をむしばみ、病気にして、自分たちだけが生息しやすいように支配しようとする。むしばまれた地球の「お手当て」を役目とするヒーリングアニマル(動物の姿形をしているが、妖精のような存在)と一緒に、それに立ち向かうのがプリキュアだ。

守る相手を選んだ、プリキュア。その姿が視聴者に強い印象を残したのは、過去のシリーズで敵にさえ共感を示し、手を差しのべたり、和解したりするエピソードもあったからだろう。また、いくら「力もないくせに」などとあざ笑われても、「絶対にあきらめない!」と強い気持ちで抗い全てを守るのが、お約束の展開でもあった。

だが一方で、ヒープリならではの文脈も存在した。ビョーゲンズの一員であるダルイゼンは、さながら病原体のように人の体内に入り込むことができる。のどかは、幼少期に原因不明の病気で苦しんだ経験を持つが、物語が進む中で、その病は進化する前のダルイゼンが体内に入り込んでいたからだったという因縁が明かされた。

進化してのどかの体外に出たダルイゼンは、他の生き物や自然にもさんざん横暴を振るった。その彼が、自分の王が進化するための「餌」になるのを拒否したことでアジトを追われ、突然「負傷した俺の体が回復するまで、体の中にかくまってくれ」と言ってきたのだから、かなりグロテスクだ。もし受け入れれば、のどかはそのせいでまた苦しむ運命だった。

「女の子のために」と誕生したプリキュアに、その苦しみを強いる選択肢はこの時点でなかったと、個人的には感じていた。

ただ一方で、「プリキュアは温かい友達や家族に恵まれており、ダルイゼンは孤独で帰る場所さえない」と強調される場面もあった。「悪者」には「悪者」なりの悲しみや辛さがある――。この描写は、「絶対的正義も、絶対的悪もない」といわれるようになって久しい、私たちが生きる社会のリアリティーをすくい取っている。プリキュアが体現する正義も「絶対」ではないとするなら、のどかは自分を犠牲にしてでも彼を守るのではないか。視聴者の間では、そんな予感もあったのだ。

しかし、彼女は悩み抜いた結果として自己犠牲を拒否し、「私の体も、心も、全部私のものだ」と宣言してみせた。敵の王に「ダルイゼンを見捨てながら『みんな』を守るなんて思い上がりだ」となじられても、「そんな言葉には負けない」「私は絶対(ダルイゼンを追い詰めた)あなたを浄化する」と毅然とはねつけた。

守る「みんな」は、私が選ぶ――。そんな彼女を見たとき、私は世間で大きな話題を呼んだもう一人のヒーローを連想した。空前のヒット記録を打ち立てた『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の煉獄杏寿郎だ。

映画「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のポスター=都内で撮影

 煉獄の示した正義については、すでにこの連載で考察した。物語を読む鍵は、強さのみを希求する醜い鬼が元は人間であったという設定だ。鬼はこの社会の悲惨さと理不尽に晒され、結果として利己感情に支配された人間そのものなのだ。煉獄はその悲しさを引き受けた上で「いかなる理由があっても、守るべきものを見失い、強くあることが自己目的化した『鬼』は悪だ」という燃える正義を貫いてみせた。

体をボロボロにしながら鬼と戦い、後輩の剣士らを守る姿は自己犠牲そのものだったではないか。キュアグレースとはむしろ対極的では?――そう感じただろうか。実際、煉獄をめぐってはさまざまなメディアの記事などで、「自己犠牲を美化している」とか「皆でこれに飛びついて感動するのは危うい」とか、批判的論評も目についた。

しかし、その論はあまりに短絡的だ。社会学者の宮台真司氏の視点が参考になる(『マル激トーク・オン・ディマンド』2020年10月31日放送回)。宮台氏は、煉獄を支えているのは、今や多くの人間が行動指針としてしまっている打算や計算を「それがどうした」とはね返せるほどに強い、内から湧き上がる倫理観だと指摘している。

鬼は煉獄の強さを認めると何度も「鬼になれ」と誘うが、その理屈は「鬼になれば強くなれるし、死なない(=鬼にならなければ弱いまま、死ぬぞ)」という、打算と計算にまみれたものだ。煉獄は、「それがどうした」という顔でひたすら拒絶し続け、自分が自分であり続けるために選んだ正義を貫いた。対決したその鬼も、壮絶な過去を持つことが後の展開で明かされるが、煉獄はたとえそれを知っても、シンパシーを抱くことなどなかっただろう。

そもそも「自己犠牲がよくない」とされるのは、他の誰かによって設定された目的や利益のために、自分自身の心や体を軽んじる行為だからだ。「私が犠牲になれば、他者や世界を救える」というある種のヒロイズムと結び付く「自己犠牲」は、どこか甘やかな打算と計算の匂いさえする。結果的に命を落としたとはいえ、そういう論理に決してなびくことなく、「私」を生かすために戦い抜いた彼の横顔は、むしろ古臭い自己犠牲とは無縁のキュアグレースのそれと重なる。

「ヒーロー」を形づくる価値の根幹には今も昔も、「利他」の精神がある。だが、キュアグレースと煉獄に共通していたのは、自分自身をないがしろにしなかったことだ。他人を守りたいなら、自分を守ることも両立させないといけない。『鬼滅の刃』に登場する有名な台詞にもある通り、生殺与奪の権を他人に握らせていては、正解の見えにくい時代に「あるべき世界」の姿を思い浮かべたり、複雑な状況を引き受けながら守るべきものを熟慮したりする「私」を保てない。そのことを直感するからこそ、私たちはもはや、自分自身をたやすく放り出す「ヒーロー」には心を動かされないのだ。

ちょうどこの原稿を書いていたら、どこかの国の元首相が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」「(女性は)わきまえて」といった趣旨の差別発言で批判を浴び、「わきまえない」というワードがTwitterでトレンド入りしていた。「わきまえろ」とはつまるところ、自分を殺せということだ。そんな発言をする人間に、現代のリーダーもヒーローも務まらない。

「滅私」で正義は成立しない。何かの、誰かの奴隷になることを拒絶しなければ、私がなるべき私も、見えてこない。そんな、新しい正義の時代が始まっている。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko

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